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武田信玄と武田氏ゆかりの地

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武田信玄と武田氏ゆかりの地

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これは「旅のテーマと主な目的地」の記事です。
武田信玄像

戦国時代は足利幕府の統制が瓦解した明応の政変に始まり、信長が将軍を追放するまでとされている。この時代は諸国に群雄が割拠し領国の支配を強めたため、現在につながるような地域が形成された。そのためか戦国武将は江戸時代の各藩の藩主にも増してお国自慢や観光の資源となっている。その中で甲斐の武田信玄は広大な領土を獲得し、独自の内政を敷き、天下人となった3人に次ぐ知名度と人気を誇る。このページではその武田信玄と武田氏に焦点を当てて、ゆかりの地を訪ねていく。なお当時の人々は人生の中で何度か名前を改めたり複数の名前を使いわけていたが、このページでは事件の起こった当時の名前ではなくもっとも著名な名前を用いる。


武田信玄と武田氏の概要[編集]

武田氏の歴史[編集]

武田氏は甲斐源氏であり、八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光に始まると言われている。実際は義光の子である義清が常陸武田郷(茨城県勝田市武田)にいられなくなって甲斐に流れたとされる。義清の子である清光には多くの子があり、甲斐の国内各地に分封されて大きな勢力を持つようになった。その後は源頼朝に警戒され粛清を受けたり、中先代の乱や上杉禅秀の乱などで打撃を受けるも、一族が甲斐守護に返り咲くなどする。守護から戦国大名化し武田信玄の父である信虎の時代に国内をほぼ統一する。信玄の時代には信濃を初めに、西上野・駿河・遠江・三河と現在の山梨・長野・静岡・群馬の一部にまで版図を広げ、全盛期となる。信玄は上洛の最中に病死し勝頼がこれを継いだが、織田信長に攻められ武田氏は滅亡する。江戸になってからは武田氏の子孫や旧臣は徳川氏に仕えることになる。


武田氏に関連する人物[編集]

武田信虎[編集]

十四歳で父信綱が没したため家督を継ぐ。叔父信恵らと家督を争い勝利する。その後も河内領主穴山氏や郡内領主小山田氏らと抗争し打ち勝つ。西郡の大井氏制圧に際しては信玄の生母となる大井夫人を室に迎える。甲斐国外の北条氏や今川氏・諏訪氏らの侵攻を撃退し、領国の統一を進める。この間に居館を石和から躑躅が崎に移し、要害城や湯村山城を築く。今川氏の代替わりに際して、両国間の関係が好転し、今川義元は信虎の娘(信玄の姉)を室とする。後に信虎が駿河に嫁いだ娘の訪問を済ませ甲斐に帰る際に、今川氏と通じた嫡子晴信(信玄)に国境を封鎖され追放された。この追放劇は信虎が対立していた晴信を廃嫡し家督をその弟信繁に継がせようとしたため晴信が主導したものとも言われるし、あるいは粗暴と連年の戦争を嫌った家臣による主君押込とも言われる。

武田信玄(晴信)[編集]

信玄の英雄化

武田信玄は戦国武将として著名であるが、過度の英雄化を受けているとも言われる。父親の信虎の追放劇は家臣主導であるとか、棒道や信玄堤も今日言われているほど大規模なものではないとの説がある。宗教についても家臣や領国支配のために利用しているばかりでなく、本人も信じ恐れていた跡もある。信玄に関する近年の小説やドラマなどでは甲陽軍鑑をもとにしているものが多いが、これは後代の筆が入り史実など誤りが多く信頼性がないとされている。また最近では信玄が観光資源として重要であるため、例えば歴史のある温泉はどこもかしこも信玄の隠し湯を謳うようになっている。もちろん何が何でも史実に従わなければならないわけではなく、歴史研究や「経営に信玄を生かす」などでなければ英雄伝説を楽しむのも全く個人の自由だ。ただ時代の制約の中で生きた人物という観点からみても、面白いものもいろいろと見えてくる。

1521年に駿河勢から甲斐が攻められる中、母親大井夫人の避難先の積翠寺か要害城で生まれる。1541年に父・信虎を駿河に追放して当主となる。姻族であり同盟関係もある諏訪(諏訪頼重)を攻め、さらに伊那(高遠頼継)を掌握する。駿河(今川氏)・相模(北条氏)と同盟を締結し、信濃方面への侵攻を本格化させる。当時の信濃では群小の領主が乱立しており日和見状態のものが多かったが、その中で佐久の笠原清繁、松本平の小笠原長時、北信濃の村上義清らと戦う。信濃を制圧すると武田の拡張を恐れる越後の上杉謙信と5度にわたる有名な川中島の戦いを行い、決着はつかないまま支配地を北に広げる。その間に西上野に侵攻する。今川義元が織田信長に討ち取られると駿河を攻め、今川・北条・徳川家康とも争うことになる。今川領を切り取り、北条氏とは和睦し、徳川領の三河にも侵攻する。家康に勝ったために後の伝説が生まれることになった。織田信長とは友好関係を保ちつつも双方とも警戒していたが、信長包囲網を築く中で上洛を目指し、その途中で病死する(1573年)。後継者としては本来は三条夫人の子である義信が想定されていたが謀反により廃嫡され、諏訪御料人の子・勝頼が代わることになる。これがのちの武田氏の分裂の原因となった。


武田勝頼[編集]

武田信玄の四男。信玄の没後はもともと長男の義信が継ぐはずであったが、謀反により廃嫡。二男は失明・三男は夭折で、勝頼が嫡子となる。諏訪御料人の子で武田氏に伝わる『信』の字ではなく、諏訪氏に伝わる『頼』の字であり、かつての諏訪の家を継ぎ諏訪の高遠城主となっていた。そのため諏訪での家臣団と甲斐での家臣団と勝頼の間で軋轢が起こる。信玄没後も周辺の国々を攻略し領土を増やしていたが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に破れ国が動揺する。さらに織田信忠に攻められ、天目山まで後退した後に郡内地方の小山田氏の裏切りにあい、その地で自害した。

武田二十四将[編集]

武田信玄に仕えた中でも特に優れた24名を指して示す呼称。有名なところだと名軍師として知られる山本勘助や武田騎馬軍団の精鋭「赤備え」を率いた山県昌景などが挙げられる。武田軍団の中枢とされているが、二十四将の呼称が成立したのは江戸時代であり、また、活躍時期もそれぞれ異なって二十四将がそろって同時期に活躍したという訳ではないし、著書によって何人かは入れ替わっている。

甲府市内には躑躅ヶ崎館(武田神社)を中心に二十四将の館跡があり、現在の山梨大学辺りが秋山信友の屋敷跡であったりする。スタンプラリーという訳ではないが、二十四将館跡を巡ってみるのも良いかもしれない。尚、原虎胤の屋敷跡だけは遺構が見つからなかったという事で、館跡は23箇所である。

二十四将の中に真田幸隆とその子である信綱・昌輝・昌幸の兄弟の2~3名が入る。武田氏滅亡後に昌幸の子である信之が信濃上田に移り、その弟は有名な幸村(信繁)である。確証はないが幸村は甲府で育ったものと考えられている。真田氏については「真田一族ゆかりの地」に詳しい記述がある。

武田信玄の時代[編集]

武田信玄の生まれた頃、父信虎は甲斐の国をほぼ統一していた。駿河と甲斐は関係が悪く、信虎は駿河勢から攻められていた。後に駿河の代替わり争いのときに信虎が義元に味方したため、関係が好転し相模の北条も合わせて同盟を結ぶことになる。関東では関東公方の足利氏と関東管領の上杉氏がそれぞれ分裂して勢力争いをしていたが、後に相模の北条氏に圧迫されることになる。このため上杉氏は越後の長尾景虎を頼り、景虎が関東管領を継ぎ上杉謙信となる。謙信は越後の国を統一し、関東や越中・信濃にも出兵し、北条氏や一向一揆あるいは武田氏と戦うことになった。信濃の国は小笠原氏が守護であったが小領主が分裂し、信玄の介入を招くことになる。尾張の織田信長は信玄より10歳以上若年の守護代で、領国を統一・美濃を攻略し、桶狭間の戦いにより今川義元を討つなど勢力を広げていく。義元がうたれた後の今川氏は松平氏が離反するなど弱体化し、信玄の介入を招くことになる。信玄は信長とは友好関係を保ちながらも警戒し、正室三条夫人や保護している僧侶など様々な外交手段を通じて浅井・朝倉・一向一揆など信長包囲網を築き、将軍足利義昭の命令に則り西上を図ることになった。

寺社に対する保護[編集]

武田信玄は信仰ばかりでなく知識人を集めたり家臣や領地を掌握するためもあって、多くの宗派の寺社への保護を行っている。そのため信玄に関わる寺社は多い。織田時代に多くが破却されたが、それでも武田時代の遺物を残すところも多い。

  • 甲府市(甲府五山(長禅寺、能成寺、東光寺、法泉寺、円光院)・善光寺・積翠寺・要法寺・大泉寺・恵運院・一蓮寺・入明寺・仁勝寺・義雲院・満蔵院・金櫻神社・玉諸神社・八幡宮)
  • 甲州市(大善寺・向嶽寺・菅田天神社・栖雲寺・雲峰寺・放光寺・慈雲寺・熊野神社・菅田天神社)
  • 笛吹市(一宮浅間神社・慈眼寺・広厳院・大蔵経寺・竜安寺・大野寺・石和八幡宮・成就院)
  • 山梨市(窪八幡神社・永昌院)
  • 北杜市(清光寺・正覚寺・海岸寺)
  • 韮崎市(願成寺・武田八幡神社)
  • 南アルプス市(法善寺・古長禅寺)
  • 身延町(久遠寺・龍雲寺・南松院)
  • その他(富士御室浅間神社(河口湖町)・北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)・薬王寺(市川三郷町)・明王時(富士川町)・慈雲寺(長野県下諏訪町)・信濃龍雲寺(佐久市))

武田信玄の民政[編集]

金山の開発[編集]

武田信玄は領国経営のために金山の開発を行い、甲州金と呼ばれる金貨を発行した。もっとも有名な黒川金山は近年では武田氏の直接経営ではないとされることが多いが、金山衆と呼ばれる技術者とは関係を持ち、駿河深沢城攻略の際には金山衆を投入している。

黒川金山(甲州市)、湯之奥金山(身延町)、御座石金山(韮崎市)、雨畑金山・黒桂金山・稲又金山・保金山(早川町)など

信玄の隠し湯[編集]

武田信玄やその配下は湯治等のために温泉の開発や保護を行った。最近では観光のうたい文句として『隠し湯』の言葉が多くつかわれているが、どこまでが隠し湯かは分からない。いずれにしても当時からあった温泉として次のようなものがある。

湯村・積翠寺(甲府市)、川浦(山梨市)、下部(身延町)、塩山・嵯峨塩(甲州市)、増富(北杜市)、奈良田・西山(早川町

各地の史跡・観光スポット[編集]

山梨県[編集]

人は城

武田信玄は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と詠い城は必要ないと言ったとされるが、この言葉は後世に作られたものらしい。確かに甲斐の国に城を築かなかったが、これは甲斐の国が天然の要害であり城の必要が多くなかったからだろう。信濃には例えば海津城など建築している。また父信虎は要害城・湯村山城など築き、躑躅ヶ崎館にも堀や曲輪など城の構造を持たせ、信玄はこれを継ぐことができた。のちの勝頼時代には甲府の西側に新府城が築かれたが、織田に攻められる前に破却されている。なお甲府駅前の甲府城は武田氏滅亡後のものである。

  • 山梨県内は鉄道網が密ではなくバスの本数も少ないので、移動には車が頼りになる。マイカーやレンタカーを使うと効率的に回れる。路線バスについては山梨県バス・ネットワークが参考になる。
  • 山梨県内で見ておきたいスポットとして武田神社・甲斐善光寺・恵林寺などがあり、見やすいものとしては甲府城や信玄像などがある。



甲府市[編集]

甲府市自体はかなり広く全体は車でないと移動できないが、歴史の史跡が多くある部分については体力があれば自転車で移動することも可能になっている。甲府駅北口に電動アシスト付き自転車のレンタサイクルがあるので、これを使うと坂の多い甲府でも効率的に回れる。信玄公のまち 古府を歩く

  • 武田神社 — 武田信玄の居城である躑躅ヶ崎館の跡地に大正時代に建てられた神社。館は失われているが、曲輪や堀など戦時を意識した構造が残っている。
  • 甲府城 (舞鶴城) — 甲府城は武田氏滅亡後の織豊時代の建築であるが、武田の遺臣の子孫である柳沢吉保とその子吉里が藩主として政務を執った。
  • 要害城址 — 躑躅ヶ崎館に付随した山城である。信虎が今川氏配下の福島正成に攻められたとき、信玄の母である大井夫人はここに避難して信玄を生んだ。
  • 湯村山城跡 — 武田信虎が居館を石和から躑躅ヶ崎に移したときに、防衛のために作ったとされる城。
  • 甲斐善光寺 — 川中島の戦いが長野の善光寺付近におよび、善光寺別当栗田氏も武田・上杉に分裂したため、この栗田氏と善光寺本尊が甲府に遷されて甲斐善光寺となった。
  • 甲府駅南口信玄像 — 甲府駅の南口に巨大な武田信玄像がある。ただしこの像の元となった長谷川等伯の肖像画は別人のものという意見が強い。
  • 東光寺 — 信玄に攻められた諏訪頼重が自害し、信玄の長男義信が幽閉され死去するなどしている。甲府五山に含まれる。
  • 甲府五山 — 信玄は臨済宗に帰依し、臨済宗の制度である五山の制度に基づいて、臨済宗の長禅寺・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺を甲府五山とした。
  • 武田信玄火葬塚 — 岩窪町にある。柳沢吉保によって信玄の墓と認められたが、他にも墓とされるところがいくつかある。
  • 武田神社例大祭 — 毎年4月12日に甲府駅から武田神社までの武田通りの桜並木を神輿と地元住民による騎馬行列が通る。
  • 信玄公祭り — 武田神社例大祭の前の土曜日に甲府駅周辺において芸能人による信玄・勘助と地元企業や県内各地の団体による武者行列が行進する。

韮崎市[編集]

  • 新府城跡 — 武田勝頼が築いた城であるが、完成前に信長に攻められ、勝頼によって火が放たれた。現在は城跡が残り、神社が建てられている。
  • 武田八幡宮 — 鎌倉時代初期の武田信義から氏神とされ、歴代の武田氏の保護を受ける。現在の本殿は武田信玄の造営である。

甲州市[編集]

  • 天目山 — 武田氏終焉の地。織田信長に攻められ、勝頼は東側の郡内地方に逃れようとしたが、郡内を治める配下の小山田信茂の反乱にあい、郡内に入る手前のこの地で片手千人斬りの土屋昌恒が時間を稼ぐ中で自害した。
  • 景徳院 — 徳川家康が武田勝頼を弔うために終焉の地に築いた寺で勝頼らの墓が残る。
  • 恵林寺 — 武田氏の菩提寺となり栄える。織田信長の甲斐制圧後に浪人を匿ったため、織田方の焼き討ちに会い、山主快川紹喜が「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と唱えて入定したとされる。徳川時代に再建され、武田遺臣の柳沢吉保の墓所となり、現在も信玄公宝物館を持つ。
  • 勝沼氏館跡 — 信虎の弟・勝沼信友とその子・信元の館跡で、国史跡に指定され公園となっている。

甲斐市[編集]

  • 信玄堤 — 治水と新田開発のために御勅使川と釜無川の合流地点に作られた堤で、現在は信玄堤公園となっている。

その他[編集]

  • 大井俣窪八幡神社 — 清和天皇の勅願により859年に宇佐神宮が勧請され成立。武田氏の崇敬を得て、信虎・信玄やその家族の参拝も多い。  所在  山梨市
  • 岩殿山城跡 — 郡内を治める小山田氏の城。大月駅から見える。  所在  大月市
  • 義清神社 — 新羅三郎義光の三男である義清が甲斐の国に流れて館を構えた跡が没後に神社になったもの。ただし館は市川三郷町にあったとの説もある。  所在  昭和町
  • 矢立の杉 — 戦勝祈願に武士が矢を射立てる杉で、源頼朝が行った伝説もある。武田の武士の間にも名高く、後には北斎・広重にも描かれ、最近では演歌歌手・杉良太郎の曲にもなった。  所在  大月市

長野県[編集]

善光寺

長野県での見どころとしては諏訪大社・深志城(松本城)・海津城・善光寺などがある。長野県では信玄は侵略者であり、あまり人気がないようだ。

  • 諏訪大社 — 武田信玄が姻族の諏訪氏から奪い、軍神として保護した。  所在  諏訪市
  • 海ノ口城跡 — 武田信虎の下、信玄が初陣を飾った城。  所在  佐久郡南牧村
  • 安国寺 — 武田信玄と諏訪氏の一族である高遠頼継の古戦場。寺は武田氏や復興した諏訪氏の保護を受けたが、現在は移転している。  所在  茅野市
  • 志賀城跡 — 佐久で武田信玄に対抗した笠原清繁の居城。城は陥落し、城下には笠原清繁の首塚とされる五輪塔が残る。  所在  佐久市
  • 砥石城跡 — 元は真田氏の城であったが北信濃の村上義清のものとなる。武田信玄が攻めるも砥石崩れという大敗となったが、後に武田家臣となっていた真田幸綱(幸隆)が攻略した。  所在  上田市
  • 川中島 — 信濃と越後の境に当たる。武田信玄と上杉謙信が5度にわたる戦いを行った。決着はつかなかったようだが、武田方がこの地を支配するようになった。  所在  長野市
  • 海津城 (松代城) — 川中島の戦いの拠点として武田信玄が築城したとされる。  所在  長野市松代町
  • 深志城 (松本城) — 信濃守護の小笠原家の城であったが、武田信玄が制圧後に松本平の支配の拠点とする。  所在  松本市
  • 善光寺 — 善光寺平の要衝として武田信玄と上杉謙信との間で争われた。また寺の威光も必要とした両者は寺宝をそれぞれの領地に持ち帰った。武田方に遷された本尊はその後に織田・徳川・豊臣と持ち主が代わり、最後に元の地に還ることになった。  所在  長野市
  • 駒場長岳寺 — 信玄が他界し荼毘に付されたとされる寺。遺品などが残されている。  所在  下伊那郡阿智村

群馬県[編集]

  • 岩櫃城跡 — 関東管領上杉氏に属する斉藤氏の城を武田氏家臣の真田氏が攻略する。真田昌幸が城代となり、織田勢の甲州攻略に際し真田氏は武田勝頼をこの城に迎えようとするが叶わず。  所在  東吾妻町
  • 倉賀野城跡 — 上杉憲政配下の倉賀野氏の城を武田信玄が攻略した。  所在  高崎市
  • 箕輪城跡 — 上杉憲政配下の長野氏の城を武田信玄が攻略した。  所在  高崎市

静岡県[編集]

  • 大宮城跡 — 今川氏方の富士氏の城で、1568年に武田勢が今川氏を攻めたとき一度は撃退するも、翌年に武田信玄に攻略された。  所在  富士宮市
  • 薩埵峠 — 1568年武田信玄と今川氏配下の庵原忠胤が戦い、翌年には武田信玄と北条氏政が戦った。  所在  静岡市/清水区
  • 蒲原城跡 — 今川義元没後に今川氏の同盟者である北条氏が入るが、駿河侵攻を目指す武田信玄が攻め落とす。後に徳川氏によって攻略される。  所在  蒲原町
  • 韮山城跡 — 北条早雲の築いた城で、武田信玄の駿河攻略に際し勝頼らが攻めるが北条氏規が守り切った。  所在  伊豆の国市
  • 興国寺城跡 — 信虎の時代に武田・北条・今川で争う。今川義元のものになったが、死後に北条氏が奪い、さらに甲相同盟復活に際して武田方に引き渡される。  所在  沼津市
  • 深沢城跡 — 今川氏の城だったが義元没後に北条氏と武田氏で争う。信玄は金山衆を投入してこの城の攻略を図った。  所在  御殿場市
  • 高天神城跡 — 今川氏の城で、義元没後に武田信玄と徳川家康が同盟して駿河を攻め、家康がこの城を攻略する。しかしすぐに両者は仲違いし、信玄は徳川方のこの城を攻めるが諦めて撤退する。後に勝頼がこの城を攻略する。  所在  掛川市
  • 三方ヶ原 — 武田信玄と徳川家康との争い「三方ヶ原の戦い」があった場所で、武田信玄の上洛を目的とした遠江・三河侵攻であり、徳川家康の生涯のなかで大敗した数少ない戦いとしても知られている。武田軍に追い立てられて一目散に遁走する徳川家康が本拠地の浜松城に着くまでの間、騎乗中に脱糞していたとか、浜松城に逃げ帰った徳川家康は門を開門し、篝火を焚いて武田軍を待ちうけて疑心暗鬼にした(空城の計)とか、この戦に敗れた徳川家康はこの時の屈辱を忘れない様に、その時の苦渋の表情を絵師に描かせた顰面(しかみ面)像などの逸話が残る。尚、この合戦に勝利し京への上洛を目指すはずだった武田軍だが、途中で武田信玄の急病により西進は中止、本拠地の甲斐に引き上げる事になる。そしてそのまま快方に向かう事無く武田信玄は病により没することになる。  所在  浜松市/北区

神奈川県[編集]

  • 三増峠 — 武田信玄が小田原城を攻めあぐねて甲斐に帰還する際に北条氏が三増峠に出兵し退路をふさごうとした。この戦いで初めは北条有利であったが、結局信玄の勝利となった。  所在  愛川町
  • 小田原城 — 北条氏の本拠地で、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた。  所在  小田原市

埼玉県[編集]

  • 武蔵松山城跡 — 関東管領上杉氏の城を北条氏が奪い、さらに上杉謙信が攻略する。その後に武田信玄と北条氏の連合軍が攻め落とした。この際に武田信玄は坑道を掘る金山衆を投入したと言われる。  所在  埼玉県吉見町
  • 鉢形城跡 — 関東管領上杉氏の城を北条氏が奪取する。武田信玄は小田原攻めの際にこの城も攻め、後には上杉謙信もこの城を攻めた。現在跡地に歴史館が建っている。  所在  埼玉県寄居町

愛知県[編集]

  • 足助城跡 — 鈴木氏の城を家康が攻め、配下とした。1571年に信玄がこの城を攻略したが、翌々年に家康が取り戻した。  所在  愛知県足助町
  • 野田城跡 — 菅沼氏の城で今川・徳川・武田が争う。信玄の西上作戦のとき徳川方であり、信玄は金山衆を投入して攻略した。この際に信玄が狙撃されたという伝説があり、これが黒沢明の映画『影武者』の題材となった。  所在  愛知県新城市
  • 吉田城(復元) — 今川氏の城を家康が攻略する。後に武田信玄に攻めれるが守り抜いた。現在は豊橋公園となっており、模擬再建された城がある。  所在  愛知県豊橋市
  • 長篠・設楽原 — 長篠城を攻める武田勝頼と城への援軍である織田・徳川連合軍の決戦の地。武田勢が大敗したため、従来は武田の騎馬隊に対して織田の鉄砲隊が勝ったとされてきたが、この説には問題が多い。長篠には長篠城址史跡保存館が、設楽原には設楽原歴史資料館がある。  所在  愛知県新城市

東京都[編集]

  • 滝山城跡 — 関東管領上杉氏の城を北条氏が奪取する。信玄の小田原攻めのときに途中のこの城の攻略を図るが、北条方は守り抜いた。  所在  八王子市
  • 八王子信松院 — 信玄五女の松姫は織田信忠との政略結婚に破れた後どこにも嫁がず、織田軍の侵攻に際して八王子まで逃げ延びた。のちに出家して尼となり草庵を結んで、これが今の信松院となっている。  所在  八王子市

その他[編集]

  • 大和郡山 — 武田氏の遺臣の子孫である柳沢吉保の子吉里がお国替えで治めることになった。甲斐時代からの柳沢氏の歴史資料を保存する柳沢文庫があり、甲府との交流がある。  所在  奈良県大和郡山市
  • 土佐 — ほとんど信憑性はないが、武田勝頼が土佐まで落ち延びて甲斐源氏の子孫である香宗我部氏を頼ったとの伝説があり、地元ではイベントや山梨との交流が行われている。  所在  高知県仁淀川町
  • 武田氏館 — 甲斐に流れる前に源義清は常陸武田郷で勢力を拡大させた。現在復元された館が建っている。  所在  茨城県ひたちなか市
  • 米沢上杉祭り — 信玄のライバルである上杉氏が米沢に遷されたため、ここで上杉氏の祭りが行われている。川中島の合戦の再現が一つの見どころで、敵役ながら川渡りや一騎打ちなどが繰り広げられる。  所在  山形県米沢市